中高野街道を辿る

〜9,967歩の旅〜

12月10日(金)

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大和川に架かる左の橋が現在の高野大橋。右の橋桁跡が見えるところに(元)高野大橋があった。 その(元)高野大橋の上(北)と下(南)に見えるのが「中高野街道」である。

今回は、その「中高野街道」を南↓に向かって歩き、河内松原駅辺りまで行こうと決めた。



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しばらくは「瓜破南」(大阪市平野区)である。民家は少なく、工場が多い。 前に見える阪神高速(高架)の手前から既に三宅(松原市)のはずだが、住所表示がなかなか見つからない。 阪神高速(高架)は大和川を越えた後、左(東)へ向きを変えて、藤井寺方面に向かっている。



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高速道路を過ぎると住所表示は「三宅中」に変わった。 相変わらず細い道だが、街道らしき面影は感じられない。



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街道に面して赤い鳥居があった。鳥居をくぐると、思った通り、屯倉(みあけ)神社だった。 大和王権の大王家の直営農地を表す屯倉が「三宅」という地名の元になったのである。

ただし、石造りの立派な鳥居は南側にあることが分かった。



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屯倉(みあけ)神社の拝殿である。 御祭神は、菅原道真公、須佐之男命(すさのおのみこと)、品陀別命(ほんだわけのみこと, 応神天皇)である。 大宰府に左遷されることになった菅原道真が、道明寺で叔母の覚寿尼に別れを告げた後、氏神であるこの神社にお詣りした とのことである。



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菅原道真公の詠んだ歌となっている。その歌碑はとても新しい。

古今集に「梅が香を袖にうつしてとどめてば春は過ぐとも形見ならまし」(詠み人知らず)という和歌がある。 (梅の花の香りを袖に移して留めておいてしまえたら、春が過ぎても、その香りが春を思い出す形見であろうに)



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屯倉(みあけ)神社の直ぐ南に、街道に面して、市立三宅小学校があった。



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阿保(あお)5丁目交差点を過ぎた辺りで、左(東)折した。細い路地のような道を通って阿保神社(あおじんじゃ)にたどり着いた。 ここも菅原道真を祀っている。




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阿保神社(あおじんじゃ)の本殿である。その左には「史跡阿保(あぼ)親王住居跡」の石碑が建っている。

「阿保(あお)という地名は、平安時代初頭、51代平城(へいぜい)天皇の皇子であった阿保(あぼ)親王が居住していた という伝承から付けられた。薬子(くすこ)の乱に連座して、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷。のち許されて帰京。その子らに在原の姓を賜った」とある。 ちなみに、親王の5男が、六歌仙で有名な在原業平である。

「阿保」をしばしば「あほ」と読んでしまいそうだが、決して、阿呆(あほう)ではない。まったく失礼なことである。



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海泉池(かいずみいけ)近くまでやってきた。松原市Webには次のように書いてある。

江戸時代を通じて阿保村と三宅村との間にしばしば水論が起こっています。 それに関して、長尾街道沿いの中門の堰樋跡には享和元年(1801)7 月の「字中門三宅村大海池 分量石 上田三宅立会」 と刻んだ分量石が建っています。 また、海泉池北堤、阿保公民館東側にも文化5年(1808)閏6月の 「海泉池満水石 西阿保三宅立会」と記した満水石が見られます。 両石は、各村への配水の分量を決める物差しともいえるものでしょう。

さらに、直ぐ隣の石碑には、「海泉池の名称は、池底に湧水があり、大きい池を海にたとえ、その池を褒めたたえた名である」 と記されている。



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石碑の傍には地蔵堂が2つ並んで建っていた。説明がないので分からない。



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海泉池(かいずみいけ)である。写真を撮っていたら、鴨がまとまってこちらへやってきた。 餌を与えたわけでも何でもないので、直ぐに諦めたようだが、(立場を失い)困ってしまったかのように思えた。



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海泉池(かいずみいけ)を過ぎて、またしばらく歩いた。鍼灸院の角地(阿保4丁目)に、別の地蔵堂が建っていた。



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「左 平野 大阪」「右 八尾 信貴山」と書いた道標が建っていた。間違いなく、中高野街道筋のようである。



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マツモトキヨシのある交差点までやって来た。目の前には、「松原駅前」の標識があった。いよいよ河内松原駅が近づいたようである。



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その交差点の右手(南西部)に石の標識があった。「長尾街道」「中高野街道」「阿保茶屋」と書いてある。 松原市Webには次のように書いてある。

ここから南に行くと、阿保と上田を分ける長尾街道に交差します。堺方面からの旅人でも賑わいましたので、 茶屋が設けられ、阿保茶屋とよばれました。

阿保茶屋を(あぼんじゃや)と読むそうです。難しいですね。



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近鉄南大阪線の線路を越えて、さらに南に進んだ。地名は「上田」である。右手に、市立松原幼稚園がある。



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本日の最終目的地である(新堂2丁目の)市立松原小学校までやって来た。そこに至る曲がりくねった道は、中高野街道に違いない。 大和川を越えて、「瓜破南」から始まり、「三宅」「阿保」「上田」「新堂」までやって来たことになる。

このあとの道に自信がないので、小学校の手前の道を右(東)に曲がり、河内松原駅まで戻った。 すでに7千歩を越えていたので引き返すことは止めて、近鉄南大阪線で帰ることに決めた。

駅から自宅まで歩いて、合計9,967歩だった。1万歩にほんの少しだけ足りないのが面白くない。 あはは‥「天美」あたりで降りて、再び大和川まで戻ればよかったかも知れない。



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